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アルゼンチンのラジオ放送100年の歴史

本年2020年はアルゼンチンでラジオ放送が始まってから100年という佳節を迎え、1年を通じて記念行事が行われます。この100年の間、様々な歴史的な出来事があり、ラジオ放送もそれらの歴史的瞬間の証人としてその役目を果たすなか、国民の心に刻まれてきました。 今回は史実の中から、英国との間に1982年勃発したマルビーナス諸島戦争におけるラジオ放送に焦点を当てたいと思います 同年4月2日、アルゼンチンの手に一旦マルビーナス諸島は戻りました。 マルビーナス諸島紛争は、戦争における全ての分野、戦略に始まり、外交、経済、そして通信分野までもに影響を及ぼしました。 南半球の果てのマルビーナス諸島の軍事紛争で、ラジオがどのようにプロパガンダとして利用されたか、その点についてお話を進めたいと思います。 世界各国では和平時でも戦時でも、ラジオ放送は常に効果的な武器の一種として利用されてきました。 ラジオを政治的に利用した最初の国はドイツだと言われています。 第2次世界大戦中はトーキョー・ラジオ、ドイツ・ラジオ、BBCラジオ、を始めとする世界のラジオ放送がプロパガンダとして、又は策略の一環として政治的に利用されました。 大戦後、それに続いた冷戦時代、電波戦争が起こりました。様々な社会、政治、経済システムの国々がそれぞれの利益のため、また、敵対国を陥れるため電波交差しあいました。 その主な例として挙げられるのはモスクワ・ラジオ、アメリカの声、北京放送です。 そして欧州のフリー・ヨーロッパやフリーダム・ラジオが続きます。東欧諸国や、ソ連解体の後誕生した一連の独立共和国にむけて放送が行われました。 と同時に海賊版放送局といわれる、紛争地域やその周辺地域より隠れて放送を行うラジオも出現しました。 1982年の4月2日以前、マルビーナス諸島には英国のBBC放送のニュースと現地ニュースを英語で流すフォークランド・ラジオ・サービス(FIBS)がありました。使用しゅうは数は536Khzと2370Khzでした。 AM放送でポート・スタンリーと結び、短波放送で諸島の遠隔地域をカバーすることが試みられました。 アルゼンチン海外向け放送局とアルゼンチンニュース・ラジオも英語番組が放送されていました。また英国のBBC放送もケルパーズと呼ばれる諸島住民を対象とする番組が流されていました。全て短波放送でした。 テレビ番組はアルゼンチンのサンタ・クルス州のリオ・ガジェーゴス市の9チャンネルが時々受信されていました。 1982年4月2日、アルゼンチン軍はマルビーナス諸島を取り返し、同地域でのラジオ事情は大変換を成し遂げました。 数日後、FIBSはアルゼンチン軍により占拠され、アルゼンチン国営ラジオ放送局マルビーナス諸島支局LRA60番として全国ネットワークに組み込まれました。 そしてアルゼンチン人スタッフも瞬時に着任となりました。音響担当として、エルネスト・マヌエル・ダルマウ氏、テクニカル・オペレーターとしてフェルナンド・エクトル・ペンドラ氏、アナウンサーはノーマン・カルロス・パウエル氏がそれぞれ任命されました。 マルビーナス諸島支局LRA60番は、以前フォークランド放送FIBSが使用していた施設や機材をそのまま引き継ぎました。 紛争終了まで、LRA60番のアナウンサーは現地のメディアのことを良く知っており、マルビーナス諸島特有の英語にも堪能であった、前任のワッツ氏が務めていました。しかしこれが英軍にオンエア中のアナウンスにより戦略を読まれてしまうはめになってしまったのです。 紛争の間、アルゼンチン国営ラジオ放送マルビーナス諸島支局LRA60番はプエルト・アルヘンティーノのラジオの敷地内に設置されたケーブル・システムで放送を行っていました。中波536Khzと短波2370Khzの放送も同時に行われていました。これらの番組はアルゼンチン本土へむけて短波放送のリレー放送でも中継され、本土では他のラジオでもキャッチされました。LRA60番は当時の全国ラジオネットワークの筆頭放送局であったことが幾度かありました。 リレー放送で使用された周波数は15890Khzと24146KhzでUSBバンド運営のCable&Wireless Co.より設置されました。これらの周波数は紛争以前、諸島と英国間の通信に使われていました。 当時のLRA60番のプログラムはバラエティーに溢れ、英語とスペイン語の音楽、BBC放送のスポーツニュース、住民達に向けた英語・スペイン語でのコミュニティー・アナウンスとニュース、また遠隔地に点在する農場や牧場の住民達あてのメッセージなども発信されていました。 またアルゼンチン本土よりマルビーナス諸島へむけての放送も盛んに行われていました。アルゼンチン海外向け放送局やアルゼンチン・ニュース・ラジオは周波数6060Khzの短波放送で、アルゼンチン国営ラジオ放送局コモドロ・リバダビア支局LRA11番とリオ・グランデ支局LRA24番も特別番組を編集し、マルビーナス諸島支局へ向けて放送していました。 マルビーナス諸島支局LRA60番は中波放送で同諸島を構成する島・2島グラン・マリーナとソレダーで生活している農業コミュニティーへ郵便物を運ぶ飛行定期便の到着日時を知らせたり、着陸せずに空中からパッケージを投げ、それを住民達が引き取りに行く日時を報告する役目も果たしていました。 1982年の5月1日以降、LRA60番の中波・短波放送はチリでの受信状態が良かったことで、隣国の諜報活動を阻止するため、意図的に聞こえなくされ始めます。 LRA60番は時折に放送されますが、常時のプログラムではなく、航空機を誘導する無線標識として使用されます。この状態は紛争の終了間際のバチカン法皇ホアン・パウロ2世のアルゼンチン訪問まで続きます。LRA60番はケーブルシステムでプエルト・アルヘンティーノ内だけで放送されました。 6月14日英国軍はマルビーナス諸島を取り返します。その数日前、プエルト・アルヘンティーノは英国空軍により爆撃され、ラジオ機材が破損。電力が切られ、放送ができなくなります。中波アンテナと送信機も破損、使用不可能となります。 マルビーナス諸島がアルゼンチンに戻った日、その頃に戻りましょう。 英国はマルビーナス諸島奪回のためタスク・フォース号をアルゼンチンに送ると発表します。当時アルゼンチン政府はプロパガンダのため『リバティー』という英語番組ラジオを、大西洋を戦艦で渡りマルビーナス諸島に上陸する英国兵士対象に流し始めます。『リバティー』は短波放送で、16メーターバンド、周波数は17.740Khzが使用されました。ローヤル・ネイビーのクルー達に、見たことも聞いたこともない地の果ての島までくるのは無駄なことだというメッセージを伝える役割でした。 『リバティー』は優しい女性の声で英国の若い兵士達に語りかけます。英国軍の暴挙について。そして『おうちでサッカーの試合を見たいでしょ?ひいきのチームの試合で拍手送りたいでしょ?』『私はあなたのそばにいます。』『あなたのことを待っている彼女にお手紙を書いたら?』などど語りかけます。 『リバティー・ラジオ』、又は簡単に『リバティー』は優しい女性の声でベルグレーブ・スクエアでも太平洋のどこかでも聞こえる声とアナウンスします。『ハロー。私はリバティー、あなた達からは遠い場所、マルビーナス諸島、サンドイッチ島、サウス・ジョージアス島から、声、スピリッツ、祖国』というアナウンスがバックのビートルズのイエスタデーと共に流されていました。 軍事紛争終了後、何年も経ってから、リバティーの声の正体が明らかにされました。アルゼンチンテレビの7チャンネルのアナウンサーのシルビア・フェルナンデス・バリオス氏がその女性で、原稿を担当していたのは同じく7チャンネルのジャーナリストのエンリケ・アレハンドロ・マンチニ氏でした。 アルゼンチン軍幹部はマルビーナス諸島駐屯の若き兵士の慰めと娯楽の息抜きのために、本土で放送されている人気ラジオ番組を短波放送でリレー放送しました。音楽番組で若者に人気だったラプラタ・ラジオ、サッカー、ボクシング、カーレース実況で知られたリバダビア・ラジオ、そしてニュース報道では多大なリスナーの支持を得ていたコンティネンタル・ラジオの3局でした。 当時アルゼンチンは1976年からの軍事政権下で、これらのラジオはすべて検閲されていました。 世界レベルで見てみますと、南大西洋の紛争としてマルビーナス諸島戦争は様々なメディアで報道されていました。BBC放送は紛争中、ラテンアメリカ向けにスペイン語番組の時間帯を増やし、マルビーナス諸島住民のための英語番組も増やしました。 1982年の5月1日以降ラジオ電波戦争は激化しました。BBC放送はラテンアメリカ向け放送はアルゼンチンにより妨害されていると告発し、アルゼンチン国営ラジオ放送局は短波放送が北アメリカのどこかで放送妨害作戦がおこなわれていると告発しました。 記念すべきアルゼンチンのラジオ放送100周年を祝うこの機会、マルビーナス諸島戦争でのラジオ放送事情抜きには語れません。 日本語訳・ナレーション: 植田敬子 […]

アルゼンチンのラジオ放送100年の歴史

RAE 日本語番組アナウンサーを長年勤められたサトウ アイデーさんのメッセージ    

危機で体感するラジオ   アルゼンチンのラジオ放送100周年という佳節、ラジオの思い出をたどる良い機会でもあります。 Noblex製Carinaや 忘れられない匂いがする、なめし革のカバーに包まれたSpicaから流れる聞き慣れたメロディーや声、目を閉じるとこれらの思い出が溢れ出します。 これらの思い出とは違う、別の史実があります。 政治手段としてのラジオ、危機事態、紛争や戦時下のラジオです。ボリュームを上げて、朝食時キッチンで聞くラジオではなく、暗闇の片隅で息を殺してヘッドフォンを通して聞くラジオです。 もう1つのラジオ、そう、危機で体感するラジオ。 聞きたい人よ、耳を澄ませ。     ピレナイカ ラジオ スペイン内戦後、スペイン共産党により立ち上げられた 反フランコ政権の放送局、スペイン独立ラジオ、ピレニアン ステーション です。 (ピレニアン山脈のどこかにアンテナがあると言われて ‘ピレナイカ’ラジオと呼ばれていました。)36年間にわたってオンエアされました。1941年から1977年まで、実際にはソ連、のちルーマニアから、アンテナはスペインへ向けて放送は行われました。ほぼ10万8千回にわたるプロパガンダ放送で、それらの脚本の綴じは3000巻を超え、保管されています。リスナーから送られて来た手紙も含まれます。フランコ独裁政権の検閲をくぐり抜けるため、手紙の宛先は何度も何度も東欧諸国の違う住所に設定されました。夜間に放送され、サンティアゴ・カリージョ、別名ラパシオナリアの演説、ラファエル・アルベルティやジョアン・マヌエル・セラットのインタビューが低い音量で聞かれました。                     チェの世界 エル・ムンド ラジオ Radio El Mundo、もうだいぶ前から以前のその姿は変わり果てています。しかし1958年、スタッフの1人、ジャーナリストのホルヘ・リカルド・マセッティ氏は、シエラマエストラでフィデル・カストロとエルネスト・チェ・ゲバラにインタビューするという任務遂行のため、当時革命戦争真っ只中にあった キューバにわたりました。このことをロドルフォ・ワォルシュはラテンアメリカ報道界最大の偉業であると称えました。残念ながらこの録音資料は紛失され、インタビューはオンエアされることはありませんでした。そして、再びシエラマエストラ行きは決行され、もう一度インタビューをやり直しとなります。この2回目のインタビューは無事オンエアされ、アルゼンチンをはじめ、他のラテンアメリカ諸国でも放送はキャッチされます。キューバではチェ・ゲバラが立ち上げた、今でも現役のレベルデ・ラジオRadio Rebeldeが放送しました。         Escucha Chile (チリは聞く) 1973年の9月11日、ラジオ放送歴史上、最高のコンテンツと言われる、チリの当時の大統領、サルバドール・アジェンデの最後の演説が放送されました。マゼラン・ラジオより放送され、録音、保存と複製制作作業は映画のプロットにもできるようなもので、スタジオのオペレーターや音響スタッフの苦労は計り知れないものでした。 その夜からピノチェト軍事政権最後の日まで、モスクワ・ラジオ制作の番組、Escucha Chile (チリは聞く)が放送されます。世界より同胞の声、連帯の声をチリ国民に届けるための番組でした。 チリより15.000km離れた場所で制作されるモスクワ・ラジオはLa Moscaとしては知られていて、信ぴょう性が高い的確な国内ニュースをチリ国民に伝えるメディアとして聴取率は大変高いものでした。インターネットや他の通信技術が無かった時代、どのように成し遂げられたのか。その秘密はブエノスアイレスで非公式に作られたジャーナリスト・グループにあります。ブエノスアイレスのダウンタウンのオフィス一室にイシドロ・ヒルベルト率いる記者団がEscucha […]

Whatsapp『Whatsappグループ』

ビクトリア・トローサ・パス氏は全国社会政策コーディネート委員会長で、『Whatsappグループ』でラエ世界に向けてアルゼンチンのアドリアン・コロル代表と懇談しました。 新型コロナウィルス感染拡大により生じた社会・経済問題をこれからどのように乗り越えて行くか、国民をどのように支えてゆくか、大きな課題となっており、国家の存在を公共政策に反映させることが求められていると語りました。 トローサ・パス氏は『アルゼンチンの貧困は子供と女性の顔を持っている。社会のこの側面に特に光を当てて、支援をしていかなければいけない。』とのべ、コロナ禍で自宅隔離命令が出ている中、個人に向けての緊急収入手当と法人に対しては賃金支払い支援という政策を素早く実施し、これらの政策はアルゼンチンの公共政策の歴史に金字塔として残るであろうと語りました。     日本語訳・ナレーション:植田敬子 制作:シルバーナ・アベジャネーダ ウェブサイト:フリアン・コルテス

短波放送とDX受信

1920年の8月27日、アルゼンチンで初めてとなるラジオ放送が行われました。 RAEラエ、世界に向けてアルゼンチンは当時の歴史的出来事、アルゼンチンの初のラジオ放送より、本年100周年という佳節を迎え、記念デジタルQSLカードを発行します。 世代を超えアルゼンチンのラジオ愛好者の憧れの的となっている、ポータブルラジオSpica (スピーカ)がデザインされています。 このe−QSLカードを皆様にお届けするため、ラエの番組の受信リポートを qslrae@gmail.comにお送りください。 受信リポート以外に、皆様が受信されている時の映像や聴いておられる番組の音声などのアーカイブスもお待ちしております。

コロナ禍中世界で唯一授業が中断されなかった学校

ブエノスアイレス市より6700キロ離れた南極のエスペランサ基地は南極大陸のトリニダー半島にあります。ラエ、世界に向けてアルゼンチンは 同基地の学校の教師、ビクトル・ナバーロ・サラサール氏とエスペランサ基地司令官のノルマン・ワルテル・ナウエル・トリパイ大佐と電話でつながりました。     エスペランサ基地はコロナ禍中でも授業が中断されなかった、世界でも唯一の学校がある場所です。冬休みが終わり、この月曜日5歳から12歳までの14人の子供達が基地内のラウル・アルフォンシン大統領第38学校に戻ってきました。隊員の子供達の教師は2人、ビクトル・ナバーロ・サラサール先生とマリア・イバーラ先生、後もう2人の学校用員がいます。 南極大陸には隊員が派遣され軍事および科学的な業務が行われるアルゼンチン基地が2カ所あり、エスペランサ基地はその1つです。現在63人、10世帯が同基地内で生活しています。 ラエ、世界に向けてアルゼンチンは 同基地の学校の教師、ビクトル・ナバーロ・サラサール氏とエスペランサ基地司令官のノルマン・ワルテル・ナウエル・トリパイ大佐と繋がり、貴重なお話を聞くことができました。。 エスペランサ基地にはアルゼンチン国営ラジオ放送局第36支局大天使サン・ガブリエルがあります。南極大陸唯一のアルゼンチンの放送局で、短波放送でアルゼンチンのニュースを世界に発信しています。     日本語訳・ナレーション:植田敬子 制作:シルバーナ・アベジャネーダ ウェブサイト:フリアン・コルテス  

外出禁止・クアレンテーナ中に楽しむアルゼンチン音楽

エピソード9- スペイン語で歌う世界の名曲 ポップからロックまで、世界のヒット曲、英語の数々の名曲が、スペイン語バージョンでオリジナルを超えるヒット作となっています。 ジャンル変化し、サルサのリズムで歌われた曲もあります。 続いて皆様ご存知の名曲5曲をスペイン語バージョンでお聴きください。   01- My Way / Frank Sinatra – スペイン人歌手、ラファエルのバージョンで、“A mi manera” (ア・ミ・マネーラ) 02- I´ll feel a whole lot better/ Tom Petty – アルゼンチン歌手、チャルリー・ガルシアのバージョンで “Me siento mucho major” (メ・シエント・ムーチョ・メホール) 03 - Piano Man / Billy Joel - スペイン人歌手、アナ・ベレンのバージョンで “El […]

毎年8月1日は、アンデス山脈に住む先住民族コミュニティーは、大慈悲で全ての生きとし生けるものを包み込み、全てに命を与え、終の住処となる母なる大地、パチャママを祝います。 この15年間でアルゼンチンではこの祭事の重要性はぐっと増しました。特に北東部の先住民族コミュニティーにとってはパチャママはエンブレム的な祝いとなっています。 8月1日の早朝、合唱で始まり、その日の宴のための食事と飲み物のメニューの下ごしらえと続きます。大地の恵みに感謝を意味します。 毎年尊い命のサイクルを新たにする祝い事で、差別なく全ての人が同じように感謝の気持ちを表します。 今日はアルゼンチン北東部に位置するサルタ州の国営放送局支局のスタッフが用意した人々の声、歌、コメントで構成されるオーディオお楽しみいただきましょう。人間に痛めつけられて、美しい自然が脅威に晒されている今、パチャママの祝い、母なる大地に謝意を表すことは大変重要となっています。トウモロコシを 始めとする大地の恵みの収穫を祝う人々の声が聴かれます。 サルタ州はブエノスアイレス市より北東に1500キロ離れています。       日本語訳・ナレーション:植田敬子 制作:シルバーナ・アベジャネーダ ウェブサイト:フリアン・コルテス アルゼンチン国営放送局サルタ支局 アナウンス:Luis Gomez. 編集:Rodrigo González Gomez. サルタ州音楽バンド担当:Sabino Figueroa, Balvina Ramos, Taimof Roots. 歌声:Liliana Daunes. 監督:Dolores Plaza.

来月8月27日、アルゼンチンのラジオ放送は100周年を迎えます。その長い歴史の中で、最もご長寿番組なのが、ラジオ劇場、ラス・ドス・カラトゥラス (2枚の仮面)で70年間、途切れることなくオンエアされています。現在のラス・ドス・カラトゥラスの監督を勤めるのはノラ・マッシさんで1990年よりラジオ劇場の陣頭指揮をとっておられます。   ノラ・マッシさんは女優、舞台監督、演劇の先生、ラジオ脚本家、ラジオ関連テーマについて世界的な権威の1人です。ラジオ劇場、ラス・ドス・カラトゥラスによってアルゼンチン、及び世界の文学作品が一般家庭に広がったと言われています。 RAEラエ、世界に向けてアルゼンチンはSNS・Whatsappのグループでノラ・マッシさんにお話を伺いました。 ラス・ドス・カラトゥラスに費やされる作業は緻密で多分野にわたるもので、例えば、ロシアの文豪、トルストイの作品をラジオ劇場のための脚本化、俳優陣のキャスティングとパトリシオ・シュルツによるトレーニング、そして近年では、ハビエル・スキアボネによる最終編集作業で、本当に精巧な仕上がりになっています。 ノラ・マッシさんの肉声でお聞きください         「ラス・ドス・カラトゥラスについては、スペイン語だけですけど、ソーシャルネットワーク・Facebookの私たちのページにその始まりから現在まで詳しくあります。 世界には、目覚まし時計をセットして、私たちの番組を心待ちにするリスナーがいます。放送開始当初より掲げられている理念、現在では失われつつある 世界文学の世界を若手の人々の意欲で維持し発信してゆくということを掲げ続けています。」   インタビュアー:アドリアン・コロル 日本語訳・ナレーション:植田敬子 制作:シルバーナ・アベジャネーダ ウェブサイト:フリアン・コルテス

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