“1816年も末、アルゼンチンはスペインからの独立を宣言した後も、スペイン軍の執拗な侵攻の試みに悩まされていました。特に北部でその動きは激しく、現在のペルーとボリビアの地域ではスペイン軍が勢力を巻き返すため 躍起になっていました。 また港から離れている州と、フランス、イギリスとの貿易関係を優先したいブエノスアイレスの間の対立も激しくなっていました。(…)”
"1816年 宣言されたアルゼンチンの独立を世界で始めて認めたのは 太平洋のハワイ王国でした。カメハメハ3世は アルゼンチン共和国の前身、当時のリオ・デ・ラ・プラタ 合衆国の名代、フランス国籍のコルセア、イポリト・ブチャードと 1918年、自由貿易協定を結びました。イポリト・ブチャードは 南米で産声を上げたばかりの リオ・デ・ラ・プラタ合衆国を世界の列強国として認められるよう尽力を惜しまなかった 人物です。(...)"
アルゼンチンの黒人の歴史は、人種差別的な思想を持った 指導者の影響で これまで隠し通されて、あまり社会に浸透していませんでした。教育現場、メディア、社会全体の無関心、不明確な統計データーなどで、アルゼンチンは ヨーロピアン白人の国という という間違った認識が 先行していました。(...)
1816年7月9日がアルゼンチンの独立宣言記念日として知られていますが、その1年前、本当の意味での 全国的で 当時にしては大変革新的であった 市民の権利を謳った 独立宣言が行われていたという史実は 余り知られてはいません。(...)
1810年の5月25日の 5月革命の後、アルゼンチン独立への道のりは 明確なものとなりました。植民地という過去から脱却し、将来どの政権も スペインよりの干渉を受けないとの 確信のもと、アメリカ大陸生まれの生粋の現地人による 政治・経済・社会参加を謳う 独立運動が 芽生え始めていました。…